ハワイアンと歌舞伎。
二足のわらじを貫いてきたエネルギー
アロハシャツにカーゴパンツ、足元は素足にスニーカー。ハワイの風を感じさせる夏らしい装いで、心地よい音色を奏でるウクレレクラスの金田先生。その軽やかなリズムに、日々の忙しさで疲れた心もゆっくりとほぐれていきます。
金田先生がウクレレクラスで大事にしているのは、“間違ってもいいから元気よく弾こう”ということ。
「ウクレレは楽譜はいらない、元気だけあればいい。朝大学では、そうやって世間とはまったく違うやり方でクラスを進めています。受講生のみなさんのスピーディーな上達ぶりは、他の一般的な教室とは比較にならないですよ」
楽しむことから始めれば、より早くコツを掴み、のびのびと演奏できるようになるそうです。こんな視点も、ウクレレの楽しさを知り尽くしたプロのハワイアン奏者ならでは、と言えるでしょう。
金田先生はプロのハワイアン奏者でありながら、松竹株式会社に長年在籍し、第11代歌舞伎座支配人を務めたという異色の経歴の持ち主。ハワイアンと歌舞伎という二足のわらじを貫き、40年以上も現役であり続けてきました。この気概やエネルギーの根っこには、どうやら金田先生の性分があるようです。
「人一倍好奇心旺盛で、おまけに凝り性なんです。音楽でいうと、弾けない楽器があると何でもやってみたくなるし、やるとなったらとことんまでやっちゃう。日本のハワイアン業界で、僕のようにすべての楽器ができて、歌える人はたぶんいないと思いますよ」 金田先生とハワイアンとの出会いは、高校一年生の頃。当時は第一次エレキブームの時代で、ビートルズの全盛期でした。
中学・高校時代はビートルズにも夢中だった金田先生。よく聞いていたビートルズのアルバムのジャケット写真に使われ、人気の観光スポットとなったアビーロードにて。
「中学校の音楽部にハワイアンバンドがあって、学生服を着て、スチールギターとウクレレを演奏しているのを文化祭で見て、すげえなあと。それがまたかっこよかった。いつか自分もやりたいなというのはありましたね」
高校に入ってすぐにウクレレを買って、独学で覚え、次はクラシックギターを手に入れて、ビートルズやベンチャーズの曲の練習に明け暮れる日々を送ります。そんな時、ハワイアンをやっていた同級生に誘われて、ハワイアンバンドに参加。大学に入ってからは、上野のビアガーデンで演奏するなど、出演機会も増え、メキメキと演奏の腕を上げていきました。そして、大学4年の秋を迎えた頃、ハワイアン業界で超有名な一流バンド「白石信とナレオハワイアンズ」の白石さんから声が掛かり、ベースとして加入することになったのです。
「僕らは団塊の世代だから、求人は多いけど人も多くて、どこも狭き門でした。レコード会社や新聞社、広告代理店などいくつか受けたけど全部落ちて、この時まだ就職が決まってなかったんです。でも半分はプロになりたいという気持ちもあったから、僕はもうこの道を行くしかないのかなと思っていました」
就職を諦め、プロの道を決意していた10月下旬、金田先生はたまたま通りかかった就職部の掲示板に、松竹株式会社と書かれた求人票が貼ってあるのを目にします。就職戦線もすでに終わったこの時期に、名の通った企業の求人があるというのは、にわかに信じられなかったそうです。
「掲示板には、松竹の求人票一枚だけがあって、おまけにその日が締切の前日だったんです。ほんとにあの松竹だよなあ?と、資本金や業務内容を何度も見直しました(笑)」 翌日申し込みをしようと窓口に行くと、就職部の人たちも「そんな求人あったかな」という対応で、どうも急な募集だったようです。ハワイアンだけでなく、歌舞伎にも傾倒し、歌舞伎研究会に所属していた金田先生は、こうして願ってもないチャンスをものにし、卒業後は松竹に入社することになります。
「ハワイアンバンドは入社と同時に辞めたんですが、松竹は芸能関係の会社ですから、入社したときから、『あの金田ってやつ、ハワイアンのプロなんだって』と、もう周りがみんな知ってるような状況でした。だから会社も公認で、忘年会で4時間ギター弾きっぱなしとか、当時の会長からお偉いさんの接待にギター持参で呼ばれたりと、もう散々やらせてもらいました。おかげさまで、そういう環境で40年間来ちゃったから、今の自分があると思っています」
大学入学後、クラス全員に配布される自己紹介の紙に、金田先生は趣味として「音楽(ハワイアンバンドやってます)、演劇(歌舞伎が好きです)」と書いたそうです。その言葉の通り、大学では歌舞伎研究会で活動しながら、ハワイアンバンドをやり、卒業後は歌舞伎の会社で働きながら、音楽活動を継続。そして退職後の今も、歌舞伎とハワイアンの楽しさを多くの人々に伝え続けています。
「あのとき書いたことが、もうそのまんま(笑)。こんな人はいないだろうと思います。好きでやっているうちにここまで来ちゃって、我ながらおもしろい人生だなと思いますね」
堅苦しい学問ではなく、
楽しみ方を伝えていきたい
金田先生は、これまで朝大学で「歌舞伎クラス」の方も5回にわたって開催してきました。名セリフや歌舞伎音楽、歌舞伎を生んだ江戸の人たちのアイデアやセンスなど、歌舞伎のおもしろさを独自の視点でとらえた授業は評判を呼び、多くのリピーターを生んでいます。 「座学で一方的にこちらが話すというより、掛け声の練習をしたり、時にはゲストを呼んでみたり。根本的に僕のノリが朝大学のみなさんのノリとほとんど同じなんです。それと同時に、僕の切り口がみなさんのニーズと合致してるんですね。歌舞伎の解説をする人というのは、作品研究から入る人が圧倒的に多いんです。でも僕は、どうせ歌舞伎はおとぎ話なんだから、あんなものは人気役者が引き立つように書いているだけで、作品を論じたって無意味なんだ、というところまでうっかりすると言っちゃうから(笑)。芝居のあらすじを説明することくらい無駄なことはないと思っています。そもそも歌舞伎は“役者の芸”だからね。役者が出てきて、その役者がかっこよくて、セリフは意味わかんないけど、あのひと言が耳に残っている、だからおもしろいわけですよ」
金田先生がこうした歌舞伎の見方をするようになったのは、歌舞伎との出会い方が大きく関わっているそうです。
「ちょうど高校を卒業した頃、たまたまあるラジオ番組を聞いていると、当時人気が出始めたばかりの大橋巨泉が、歌舞伎が好きという若い女性とのやりとりで、歌舞伎のことをすらすらと話し始めたんです。それを聞いて、へえ、かっこいいなと。それで歌舞伎のことを勉強してみようと思ったんです。まさに偶然ですね」
歌舞伎という古典芸能に興味をひかれたのではなく、「歌舞伎のことを知っているとかっこいい」というスタイルから入っていった金田先生。だからこそ、歌舞伎の芝居の中に入り込むことなく、周辺の豆知識のおもしろさを探究し続けているのです。
前例のないことにとことん打ち込み、
歌舞伎人気の立役者に
金田先生が学生だった昭和40年代は、学生で「歌舞伎が好き」と言えば、それだけで珍しがられた時代でした。先生自身も「歌舞伎がこれほどメジャーになる時代が来るとは、思いもしなかった」といいます。ところが、今の歌舞伎人気の背景には、30代の頃に歌舞伎座宣伝部で力を発揮した金田先生の功績が大きくあったようです。 「30代はずっと歌舞伎座の宣伝部にいたんですが、自分は歴代の歌舞伎座宣伝部の中で、ナンバーワンだったということだけは、自信を持って言えますね。というのも、人がやらなかったことを何でもやってきましたから。今までの歌舞伎のイメージを覆すような、とんでもなく斬新なポスターや広告をいくつもつくってきました。例えば、当時の猿之助さんが宙乗りしている写真が立体的に飛び出す仕掛けになっていて、“いま歌舞伎が飛び抜けておもしろい”というコピーでバシッと決めた電車の中吊り広告とかね。今みたいに誰の許可を取らなきゃいけないという時代じゃなかったし、そういう前例のないことが一番できた時代だったんです」
すでにこの頃から歌舞伎のおもしろさを世間にわかりやすく伝えようと試行錯誤を重ねていた金田先生。実は、歌舞伎が幅広い世代に親しまれるきっかけをつくった影の立役者でもあったのです。
「僕自身が突拍子もないことを考えていたわけではなくて、歌舞伎そのものに洒落の効いた発想があるんです。そこをわかりやすく噛み砕いて伝えただけ。やっぱりその時代があったから、歌舞伎がどんどんおもしろくなってきたと思いますね」
常に好きなことに邁進してきた金田先生。働き盛りの年代の頃に、これからの人生を見据えてふと立ち止まるということはなかったのでしょうか。
プロのミュージシャン仲間で結成したグループサウンズのグループ。金田先生はリードギターを担当。ほとんどの楽器はこなすという多彩さで、ハワイアン以外でもプロの実力を発揮している。
「僕らの時代は日本も世界もまだ成長してた時代だから、この先への不安というのはなかったですね。30代はとにかく忙しくて、がむしゃらにやって来たから、考えている余裕もなかった。大変だったけど、よかった時代なんだろうと今となっては思うんです。今の若い人たちはいろんな意味でもっと大変なんだろうと思います。でも朝大学に来ると、みんなとっても元気だし、終業式を見るたびに感心しますよ。このノリに負けない授業をやらないといけないし、それはいい刺激になっています。他のクラスには負けてらんないからね」
受講生のパワーに触発されて、持ち前の好奇心はさらに増していくばかり。そんな金田先生のように、長く情熱を持って続けられることを見つけるコツってありますか? 「どこでどんな発見があるかわからないから、やってみたいとかおもしろそうって感じるものがあったら、とにかくやってみるのがいいですね。僕自身がそうなんです。興味を持つはずのないものに、たまたま触れる機会があったところから、今日の僕を育ててもらったようなもんですからね。長続きの秘訣は、学ぶというより、楽しむというスタンスでやること。そういう意味で、丸の内朝大学は“こんなことを教えてくれるところなんて、他にはない!”と思うようなことばかりやっていますよね。ここにたくさんのチャンスが潜んでいると思いますよ!」
金田栄一
ハワイアン奏者
大学在学中より演奏活動を開始し、白石信とナレオハワイアンズに加入。その後はスチールギター、ギター、ウクレレ等で多くのセッションに参加、昨年公開の映画「わたしのハワイの歩きかた」では挿入曲のスチールギター演奏を担当。現在は千住ハワイアンセミナーを主宰し、地域での音楽指導にも力を注いでいる。