都会に生まれ育ち、
遠回りしながら森林の道へ
日本は先進国の中で森林率世界3位の森林大国。しかし実際の森に目を向けると、木材価格の下落などによって手入れの行き届かない森が増え、日本の木材自給率は3割未満を推移しています。これだけたくさんの森があるのにそのほとんどが活かされていないのです。
こんな暗い話ばかりの森をなんとか守ろうと企業や自治体を巻き込んだ森づくり活動を行うのが、音楽家の坂本龍一氏が代表を務める「モア・トゥリーズ」。「アーバン森暮らしクラス」を担当する水谷伸吉先生は、立ち上げと同時に事務局長に就任し、国内外の森をフィールドにゼロから新しいビジネスをつくり上げてきました。東京生まれ東京育ちゆえ、「なんで森のことをやっているの?」と聞かれることも多いそうです。
「なぜなのかは自分でもわかりません(笑)。でも一つには、ないものねだりかなと思ったりするんです。心の奥底に里山への憧れがあるのかもしれませんね」
水谷先生が最初に環境問題に関心を持ったのは小学6年生の頃でした。
「オゾン層破壊、砂漠化、海面上昇、石油の枯渇といった地球が抱える環境問題を初めて知って、子ども心に地球ってヤバいんだ、と危機感を覚えたんです」
その鮮烈なインパクトが頭を離れることはなく、大学選びの段階で環境経済という分野に目をつけます。
「環境って理系のイメージがあったんですが、経済学部の中に環境経済学という分野があることを知りました。これなら文系の僕でもアプローチできるなと思って、環境経済学のゼミに入りました。でも学生時代は部活ばかりやっていて、学業は疎かになってしまったんですが(笑)」
部活に明け暮れる中、大学4年生の頃にNGOが主催するマレーシアの植林ツアーに参加したことが、森林に問題意識を抱くきっかけとなりました。
「世界の森林面積は年々減少の一途を辿っていて、現地に行く前は“熱帯雨林は切ってはいけない”という正義感の塊でした。でも現地を訪れると、トレーラーの運転手や製材所の従業員があくせく働いていて、木を切ることで雇用が成り立っている現実を目の当たりにしたんです。彼らの生活が成り立つようにしながら、森林が切られないようにするにはどうしたらよいのか。その両面を考えることが大切で、先進国のエゴや正義感だけで頭ごなしに“木を切るな”と言うのはよくないなと。言うなら、ちゃんと代案を示さないといけないと思ったんです」
森林への思いは抱えながらも、卒業後は大手企業に就職。配属先の北海道では、水や廃棄物処理のプラントの営業としてさまざまな自治体をまわりました。仕事にはやりがいを感じていましたが、やはり森林のことが忘れられず、3年の勤務を経てインドネシアで植林活動を行うNPOに転職。そのきっかけは、NPOを運営するベンチャー企業の社長に自らアポを取って会いに行ったことでした。
「その方は住友林業出身なんですが、活動や経歴を知るにつれ、“会いたい!”という思いが募ってアポを取りました。さまざまな先輩方のお話を聞いて、自分の働き方や生き方を今一度考えようと動いていた時期で。その社長の話がすごくおもしろくてポテンシャルを感じたので、その場で『僕を雇ってください』と言ったんです。そしたら『いいよ』と。今でも本当に感謝してますね」
この大胆な行動が生業として森林に向き合う第一歩となりました。そのNPOではどんな活動をしていたのでしょうか。
「インドネシアでは日本の商社も絡んでどんどん木が伐採されている状況にあり、痩せて放棄されてしまった土地に巨木になる在来種を植えて、豊かな森に戻そうという活動に取り組んでいました。その中で、僕のメインのミッションはお金を集めること。いかに崇高な理念を掲げていてもお金がなくては活動はまわっていきません。国内のいろいろな企業をまわって出資をお願いし、植林の費用として現地に送金していました。ほかにもインドネシアの現場をチェックしに行ったり、日本の方を対象にした植林ツアーのツアーコンダクターを務めたり。とにかく新しい知識を吸収しようと毎日必死でやっていましたね」
文系出身のコンプレックスは
ずっと持ち続けていたい
森林を生業とできたことに喜びを感じる一方、森林を専門的に学んでこなかったというコンプレックスは常につきまとっていたそうです。
「森林や林業に携わっている人は農学部や林学科出身の人が多くて、アカデミックな知識が当然あるわけです。僕にはそれがないので、あらゆる文献を読み漁り、学会やシンポジウムにもとにかく数多く足を運んで知識を蓄えながら、その知識をもとに現場での実践を繰り返していました。今もコンプレックスが自分を奮い立たたせてくれています」
建築家・隈研吾氏にデザインを依頼して生まれた「つみき」。ピースを増やして積み上げれば、インテリアとして大人も楽しむことができる。素材は宮崎県諸塚村のスギを使用。
必死にもがきつつも、常に楽しみながら活動に励んできましたが、30代を迎えるにあたり、ふと立ち止まってこれからのことを少し冷静に考えるようになりました。
「インドネシアの熱帯雨林に関わることは、ミッションとしてはとても幸せだったんですが、お給料としてはとっても寂しかったんです。当時結婚していたので、子どもやマイホームを考えた時にちょっと限界だなと。それで次のキャリアアップを考え始めたんですが、森林に関わる仕事という部分は外せなかった。そんな時にご縁があって、29才で坂本龍一さんと出会い、新しい組織の運営を任せていただくことになりました。本当にありがたいご縁だったなと思います」
一つ一つのご縁を無駄にせず、しっかりと生かしてきたことが今につながっています。それは運やタイミング以上に、水谷先生の真摯に森林と向き合う姿勢が大きく関わっているように思えます。
「引き寄せの法則みたいなものはあるのかなと思います。文系コンプレックスがありながらも、熱帯雨林の知識をガツガツ貪欲に吸収し続けたベースがあるから、当時の社長に認めてもらえて、現地にどんどん行かせてくれたと思うんです。そうやって二十代で培った経験値があったから、坂本龍一さんとの出会いが叶ったのかなと。大切なのは常に怠らずに研鑽を積み続けること。僕はコンプレックスをずっと持ち続けていようと思っています。それがあるからこそ、常に新しい知識を吸収しようと思えるんじゃないかな。今では知識や経験も増えてきたとはいえ、それにあぐらをかいてしまうと組織や僕自身の成長は止まってしまう。その危機感は常に持っています。そうでないと、朝大学の授業でもみなさんに知識と経験のおすそわけができませんからね」
NPO時代は自分の生活が持続できない危機感を味わいましたが、今では組織の活動が盛り上がれば、自分やスタッフの報酬に還元される喜びを実感しているそうです。
「NPO時代は資金集めにとても苦労しました。当時はNPOに対する認知も低かったので、胡散臭いと見られかねなかった。なので、坂本龍一という存在によって、、その辺りはブレイクスルーできると直感しました。とはいえ活動実績のない団体に寄付の話がどんどん舞い込むわけもなく、最初の半年間は無給でしたが、いつかは花咲くだろうと自信はあって。半年後からちゃんとお給料をもらえるようになり、前職以上の金額がもらえるまでにそんなに時間はかかりませんでした。大手企業まではいかなくても、一般企業並みの賃金がもらえるようになって、日本ではまだまだ低いNPOの地位や存在感を高めていければと思っています。あともうふた息くらいですね」
「モア・トゥリーズ」の活動のコンセプトは、都市と森をつなぐこと。立ち上げから一年ほどは、たった一人で活動の基盤づくりに全国各地を奔走。今では北海道から九州まで全国11カ所の自治体と森林に関する協定を結び、森づくりはもちろん地元産の木材を使った商品の開発などを進めています。
「僕らは都会と地域の橋渡し役だと思っています。林業をやっている人たちは普段自分が切った木がどう使われているのかはわからないけれど、僕らが製品化してユーザーさんの声を届けることで、“林業をやっていてよかった”というプライドの再生につながる。都会との接点を持ちながら、地域の人にはプライドを再生してもらい、都会の人には森を身近に感じることで心を潤してもらう。両方にメリットのある形が僕らのめざすべきところです」
都会と地方の価値観の違いは大きく、地域の人たちに活動を理解してもらい、賛同を得るまでには苦労も多かった、と言います。
「最初は“東京から何しに来たんだ”と警戒心を持たれるのは当然です。これまでは都市部の一極集中で地方は都市部が潤うために原材料を供給するという立ち位置にあって、バブルの恩恵も受けてこなかったと思うんです。なので、自分たちを理解してもらうためには、一緒に酒を飲んでお互いに腹を割って話すしかない。今では地域の人たちはみんな僕らと一緒に酒を飲むのを楽しみにしてくれていますよ(笑)」
ひたむきな情熱と誰とでも打ち解けられる気さくさをあわせ持つ水谷先生。さらには大のお酒好き。地域の人たちにとても可愛がってもらっているというのも、何だかうなずけます。
ソーシャルへウェルカム!と
大きな声で言えない理由
小学生の頃に抱いた環境問題への危機感が出発点となり、今では森林のスペシャリストに。そのモチベーションを保ち続ける気概はどこから来るのでしょうか。
「僕はこういう問題に向き合っているだけで、モチベーションがとても高まるんです。休みが少なくてもまったく苦ではないですし。それはやっぱり地域の人たちが僕らに期待してくれているという実感があるからだと思います。木材の流通や森の手入れを進めれば進めるほど地域の人に還元できて、彼らの笑顔が見れて、現地に行けば一緒にうまい酒が飲める。そんなことを想像できるから、動き続けられるのかもしれません。ある商品を開発したとして、通常のメーカーなら売上が伸びれば社内で評価されるだけかもしれませんが、僕たちの場合は地元の人がめちゃくちゃ喜んでくれる。それが僕らの原点ですね。何をするにも地域の人たちの顔が浮かぶから、さらにモチベーションが高まるんです」
「モア・トゥリーズ」が森づくりを行う国内拠点の一つ、鳥取県智頭町で地元の皆さんと。国内では間伐のほか、地域材の利用やカーボンオフセットを地元と連携して進めている。
2015年の統計によると、これまで3割を切っていた木材自給率が約30年ぶりに3割台に回復。真っ暗で先の見えなかった日本の森林にわずかな光が見えてきました。これまで5回開催してきた「森暮らしクラス」の受講生の中にもかつて木材の産地だった埼玉の飯能市に移住した人がいたり、「モア・トゥリーズ」主催の森林ツアーを行うたびに多くの元受講生が集まったり。都会にいると遠い存在だった森との距離がぐっと近づいた、という人が確実に増加中。水谷先生のこれまでの地道な活動は着実に実を結んでいるようです。
「20代で貪欲に悩みに悩んでアンテナを張りめぐらせていたからこそ、よき30代が迎えられたのかなと思っています。大手企業にいて、いいお給料もらっていても、自分がどう役に立っているのか実感が持てなくてモヤモヤを抱えている方は結構いると思うんです。隣の芝は青く見えてしまうものなので、『森の仕事っていいなあ』と言われたりもするんですが、ソーシャルで本気で飯を食うのは一朝一夕には難しい。偉そうに聞こえるかもしれませんが、これが今の実感です。
“ソーシャルへウェルカム”と言うつもりはなくて、都会で企業に働きながらできることだってたくさんあります。僕らは都会にいながら生活の中で森とゆるやかにつながっていけるような人たちを増やしたい。例えば家具がほしいときに、杉の木でつくってみようというスマートチョイスができるような。そんな小さな積み重ねが豊かな生活につながっていくんだと思っています」
水谷 伸吉
一般社団法人モア・トゥリーズ 事務局長
1978年東京生まれ。慶應義塾大学経済学部を卒業後、2000年より㈱クボタで環境プラント部門に従事。2003年よりインドネシアでの植林団体に移り、熱帯雨林の再生に取り組む。2007年に坂本龍一氏の呼びかけによる森林保全団体「more trees」の立ち上げに伴い、活動に参画し事務局長に就任。森づくりをベースとした国産材の利用促進のほか、カーボンオフセットや地域活性化なども手掛ける。